年間第22主日

わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい(福音朗読主題句 マタイ1624より)

 

★本日は松村神父様と千葉助祭がいらして一緒にミサをお捧げして下さいました。

半年後には司祭叙階となる予定です。皆様、お祈り下さい。

 

きょうの福音朗読箇所は、マタイ16章21-27節。イエスの最初の受難予告が記されている。先週の福音朗読箇所マタイ16章13-20節の中では、ペトロの信仰告白があった。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)と。それに対して、「イエスは、御自分がメシアであることはだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(同6・20)。それにすぐ続くのがきょうの福音朗読箇所である。ペトロの信仰告白が一つの転回点となって、これからイエスは明確な意識をもって受難の道を歩み始める。

 ペトロの信仰告白に続いて受難予告が始まるというのは、マタイ、マルコ、ルカ共通の流れであり、さらに、受難予告に続いてイエスの変容の出来事が述べられるのも、三福音書共通である(ペトロの信仰告白=マタイ16・13-20;マルコ8・27-30;ルカ9・18-21;最初の受難予告=マタイ16・21-27;マルコ8・31~9・1 ;ルカ9・22-27;変容=マタイ17・1-13;マルコ9・2-13;ルカ9・28-36)。ちなみに、マルコによるペトロの信仰告白と最初の受難予告は一続きでB年の年間第24主日の福音朗読箇所(マルコ8・27-35)、ルカの場合も両者が一続きでC年の年間第12主日の福音朗読箇所(ルカ9・18-24)になっている。その中でも、ペトロの信仰告白と受難予告の内容をそれぞれ別個にじっくり味わえるのがA年の年間第21主日と第22主日であるのも事実である。

 さて、きょうの福音朗読箇所の主題句は、「わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい」となっており、受難を予告したあとのペトロの対応に対して諫めるようにイエスが告げることばからとられている。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい……」(マタイ16・24)――十字架という言葉を使って、弟子たちに徹底した自己放棄とイエスへの従順を求めることばである。キリスト者にとってきわめて重要となる明確な呼びかけである。このメッセージ以後、イエスの十字架はただイエスにとって意味あるものではなく、我々一人ひとりの生き方の象徴となっていく。マタイの叙述の展開に素直に従うと、この段階では「十字架」ということばはまだ謎だったのであろう。すべてが明らかになるのは、イエスの十字架上での死においてであり、復活したイエスとの出会いの体験においてであった。そのときからほんとうに、イエスの背負った十字架は、我々一人ひとりの担う、人生や歴史における十字架の象徴となっていく。

 そのようなイエスが十字架に近づいていく始まりでもあり、十字架がキリスト者の生き方の象徴になっていく始まりにあたる朗読箇所にちなみ、表紙絵では、リポルの聖書と呼ばれる聖書写本の挿絵で、イエスの十字架への道行を描く複合的な絵が掲げられている。幾つかに場面を区切られているが、最上段は、イエスのエルサレムに入城したところの場面と思われる。そこから次の段では、イエスの裁判(右)、ペトロの否認(左)が描かれていると思われるが、三段目が実はよくわからない。イエスが人々からさげすまれている場面が描かれているものと思われる。この挿絵全体で、群衆の描き方が目立つ。イエスを迎える人々もいれば、イエスをあざけっている人々もいる。その人々の姿勢と手の動きから、イエスの最後の道行に対する人々の様子を生き生きと想像することができる。

 そして、この絵の主題である最下段の大きな部分は、真ん中に十字架に架けられたイエス、その両脇には、イエスに海綿のついた葦の棒をさしのばしている者(マタイ2748参照)。イエスの脇腹に槍を伸ばす者(ヨハネ1934参照)が描かれ、そのさらに両側に使徒ヨハネとマリアがいる(ヨハネ1925参照)。さらにその外側には十字架に付けられた二人の犯罪人、その側に兵士がいる。手前には、弟子とも群衆とも見える人々が描かれている。イエスの両腕の上には、磔刑図の定型要素である太陽と月が擬人化されて描かれている。おそらく(向かって)左の茶色い姿が太陽で、右の青みがかっている姿が月の象徴、興味深いのは、太陽は四頭のライオン、月は四頭の牛に引かれる乗り物の中にいるという体裁である。このような例は、大変珍しく、このリポルの聖書の挿絵が特別な事例であるという。そのような強調や図案工夫をもって、イエスの十字架上での死が入念に描かれている。複数の図の展開の中でイエスの十字架への道行に対する黙想が静かに深められている。なによりも実に多くの人々の中にイエスの受難が描かれていることが大事だろう。この人々は、イエスという方の生涯を、当時の人のみならず、福音書を通じて追っていく現代人に至るまで無数である。この中で、イエスを知り、イエスに従うことになるのは、どれだけの弟子であろう。一人ひとりに向けて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい……」と語られるイエスのメッセージを、今、聞く者として、あらためてイエスの受難の道をこれからの主日の朗読を通して同伴することになる。

参照 : オリエンス宗教研究所

https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230903.html