年間第13主日

自分の十字架を担ってわたしたちに従わない者は、わたしにふさわしくない(マタイ10・38より)

 

十字架のキリスト

オーストリア グルク大聖堂 西側入口扉 木製浮彫(部分)

13世紀初め 

 

 「自分の十字架を担ってわたしたちに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・38)――きょうの福音朗読の主題句前半のことばにちなみ、グルク大聖堂にある十字架磔刑の浮き彫りが表紙絵に掲げられている。グルクというのは、オーストリア南部のクラーゲンフルトに近い町。この大聖堂は11世紀のこの地の領主、サンガン伯ヴィルヘルムの妃だった聖ヘンマ(エンマともいう。10世紀末に生まれ、1045年没,1938年列聖)がマリアに献堂した教会が起源である。12世紀後半にこの教会の敷地に司教座聖堂が建てられ、オーストリアでも人気高い巡礼地となっており、13世紀に扉を飾る表紙絵のような浮き彫り作品が備えられ、ほかに聖書の諸場面を描くフレスコ画も作られている。

 表紙の十字架磔刑像において、イエスは、目を閉じ、わずかに身体が屈曲しており、明らかに死んだ姿で描かれているが、それほど、苦しみが強調されているわけではなく、抑制された表現になっている。両手は頭に比して不釣り合いに大きく、全体は万物に向けて祝福を送っているようにも感じられる。

 (向かって)左のマリアと、右の弟子ヨハネの表情も、悲嘆にくれているような姿ではなく、厳粛な死の出来事を静かに見つめているようである。全体が木の蔓が交差するような空間に描かれているので、十字架のイエスとマリア、ヨハネが一緒にいる場面自体が、一つの象徴であるかのように浮かび上がっている。マリアとヨハネが地に立っておらず、この空間の中に彼ら自身も浮かんでいるように見えるだけに、余計そのように感じられるのだろう。素朴ともみえる木の浮き彫りを通して、むしろ、マリアとヨハネが深い信頼をもって、穏やかに十字架のキリストを礼拝する心情がひたひたと伝わってくる。

 このように、この作品では、すべてに木の感触が生かされている。ここから、木や十字架がもつ象徴性に思いを巡らしてみよう。木は、人間が住むところを形づくり、食物をもたらすなど、生命や生命の源の象徴とみなされ、神格をもつものとして崇められたりすることは、宗教史から、特に日本の宗教・文化にも豊かにその事例がある。もちろん、倒れたり、枯れたりするなど、朽ちていくところにも生命のはかなさ、有限性を象徴する側面も重要である。

 キリスト教の中で、木のもつ象徴的な意味を決定づけるのは、創世記2章で語られる、楽園に立つ命の木と善悪の知識の木である。特に、善悪の知識の木から実をとって食べたことによる人間の宿命の定め(出産の苦しみ、労苦、死など)に関するエピソードは有名である(創世記2・15-17参照)。人間は、楽園から追放され、命の木に至る道から遠ざけられる(同3・23)。命の木に再び人類が至るのは、長い歴史を経て、神の御子イエスが十字架にかかったことによってである。人類と命の木との関係の歴史として救いの歴史は描かれる。このことを味わわせてくれるのが、聖金曜日に歌われる「十字架賛歌」,特に「けだかい十字架の木」(「典礼聖歌」336 番)である。「あざむかれて不幸の木の実を食べ人祖は死を身に受けた。その姿をあわれに思い、造り主なるわれらの神は、罪の木の災いをゆるす木をその日すでに示された」という節である。十字架は、「世の救いをになった木、十字架の木だけが、やみに漂うこの世界を、港に導く救いのふね、小羊の血潮に染まるとうとい木」と歌われる。このように、イエスの十字架が新しい命の木となったことは、十字架を描き続けるキリスト教美術の伝統の中でも、その図像化の大きな動機となって働いていく。

 きょうの福音朗読箇所(マタイ10・37-42)の中で、イエスは、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)と告げる。この「十字架」が何を意味するのか、イエスと同様に苦しみを受けてというようにすぐには考えられるが、十字架のもつ救いの歴史全体の背景を考えると、それは、自分が生きている救いの歴史(いのちを受けつつ、罪に陥り、今、イエスの十字架によって贖われることになる歴史)の全体を象徴しているものとして読み取ることもできる。それを「担う」(あるいは「背負う」)という意味は、とても、深い。信仰をもつ人は、自分が生きてきた神と自分との宿命の歴史を自ら担って、イエスの贖いの恵みにあずかり、イエスとともに生きていく者となる人である。そのように考えるとき、続く福音のことば「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・39)がしっくりとつながってくる。

 それは、第2朗読箇所のローマ書6章3-4節、8-11節が教える洗礼の意味と結びついている。ローマ書の内容を、この浮き彫りの磔刑像を仰ぎながら、味わっていくことが大切である。

 

オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230618.html