復活節第3主日 2017.4.30

「パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった」(ルカ24.13-35)

 

イエスが十字架につけられて死んで、新しい王国が作られることもなくがっかりして、弟子たちの集まりから離れて故郷に帰ろうとしていた二人が描かれています。

彼らはイエスの死を悲しむわけではなく、ただがっかりして、失望して帰って行きました。

「二人は暗い顔をして」と書いてある通りです。

婦人たちが、天使が告げた言葉『イエスは生きておられる』という言葉を告げたのに、墓には見当たらなかったというだけで、彼らは信じなかったのです。

これまでの経過を振り返ってみましょう。

復活徹夜祭では、安息日が終わって週の初めの日の明け方に、つまりイエスが死んで三日目の日曜日の明け方のことが読まれました。

マグダラのマリアともう一人のマリアがイエスの墓に行って天使と出会い、『あの方は死者の中から復活された。

そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。

そこでお目にかかれる』と急いで弟子たちに伝えなさい、と天使に言われました。

急いで弟子たちのところへ戻る途中、婦人たちがまず復活されたイエスと出会いました。

復活したイエスにまず出会ったのはこの婦人たちでした。

そして日中のミサでは、その婦人たちが弟子たちに伝え、ペトロとヨハネが墓に走っていきました。

彼らは遺体がないのは見ましたが、復活したということをまだ理解していませんでした。

先週の復活節第2主日では、その日の夕方、つまり、イエスが復活した日の夕方に弟子たちが集まっているところにイエスご自身が現れました。

ユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。

そこへ、イエスが真ん中に立って「平和があるように」と言われました。

勝谷司教がミサの司式をするときは「主は皆さんとともに」ではなく「平和が皆さんとともに」とあいさつします。

わたしたち司祭は司教に任命されて、司教の代わりに小教区でミサを執り行います。

ですから、わたしたちの主がわたしたちの間にいますようにと間接的に言いますが、司教は直接使徒の後継者ですから、イエスが言った言葉をそのまま直接的に言います。

それはともかく、復活イエスが弟子たちに現れました。

イエスが死んで三日目の日曜日の夕方でした。

この復活節第2主日の朗読では、その一週間後のトマスのエピソードが中心となって語られています。

見なければ信じない者ではなく、見なくても信じる者になりなさいと言われます。

今日の福音は、イエスが十字架につけられて死んで三日目に復活したその日、

つまり、ユダヤ人たちを恐れて家に鍵をかけていた弟子たちに現れたときの前の物語となります。

エマオへの道の途中にイエスが一緒に歩き始められます。

まずここに、イエスがいつもわたしたちと共にいることが示されています。

失意の内にもイエスは共におられ寄り添ってくださるのです。

それに気づくかどうかはその人の心の持ちようにもあると思います。

この二人はイエスと気づかなかったけれどもその呼びかけには心を向けて聞くことができました。

そして、食事の席に着いたときイエスがパンを取り、祈ってパンを裂いて渡されたときに彼らの目が開かれたとあります。

復活したイエスだと分かったときイエスは見えなくなりましたが、イエスが復活したのだということを信じることができるようになったのです。

宿に泊まろうとしていたのに、キャンセルしてすぐにエルサレムに戻った二人は、そのたびの次第を十一人の弟子たちに話さずにはいられなかったのです。

道で起こったこと、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かったことを弟子たちに話したのです。

そのときには復活節第2主日にあるように、弟子たちに現れていたことも分かち合ってお互いにイエスの復活を喜び、イエスの言っていたことは本当だったと確信したと思います。

すべての人を生かす行為をイエスはその生涯で行ってきましたが、このイエスの復活体験をわたしたち自身が受けることで、その行為の意味がよく理解できてくると思います。

その行為のすべてをいっぺんに理解することはできません。

時間と空間の中で生きているわたしたちは、それを一つずつ福音を読んで理解していくわけです。

年間の典礼は毎週毎週、イエスの行いを福音朗読の中で理解していくわけです。

聖書の中では感情を表す言葉が少ないのですが、「わたしたちの心は燃えていたではないか」という、その燃えていたのはなぜなのか、

わたしたちの心も燃え立たせてくださいと言えるような復活したイエスとの出会いを求めてまいりましょう。

(佐藤謙一神父)