年間第13主日

子供の手を取って、「タリム、クム」と言われた (マルコ5・41)

本日は「集会祭儀」です。

祐川神父様の書簡をお伝えいたします。

 

『Verba volant Scripta manent(ヴェルバ ヴォラント スクリプタ マネント)神学生時代ラテン語の勉強で覚えた格言だ。意味は「言葉は飛んでいくが書かれたものは残る」。話した言葉はいつか記憶の中から飛んでしまうが、書かれたものは確実に残る。

ある時から説教を書かなくなった。説教はなまもので、その場の雰囲気やメンバー構成によって語り口調やニュアンスも変わる。それを書き記して別の文脈で読むと誤解を生む可能性もでてくる。書かれたものが独立して独り歩きしてしまうかもしれない。

書かれたものはTextum(テクストゥム)とも呼ばれ、それは生地(編まれたもの)でもある。縦の線や横の線が織りなすテキストになっていく。聖書の言葉もその意味では良いテキストなのだ。その言葉が語られた背景は違っても、時代を超えて意味深い地平を持っている。聖書はこの地平(ホライゾン)が無限なのだ。いつ、どの文脈の中でも深い意味を見出すことができる書物の代表が聖書(まさに「書かれたもの」(Scriptura))なのだ。

私たちは信仰者として神に信頼を置きつつ毎日を暮らしている。何か自分に助けが必要な場合、祈り求める。今日、福音の中で二人の人が助けを求めている。一人はヤイロ、娘の病気が深刻で死にそうになっており、イエスに助けを求めに来ている。「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とイエスへの信仰を表している。もう一人は名前が記されていないが、十二年間も出血の止まらない女性だ。彼女もイエスに信頼を置き、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエスに近づいていく。

これら二人の人物に共通するのは、いずれも切迫した状況にあり、イエスにこそ希望を置いていることだ。そして、ただイエスが来て何かしてくれることを期待するのではなく、自分たちから一歩踏み出している。恥も外聞もなくイエスに近づいて癒しを願っている。ただ信頼していると信仰を表すのみならず、自分たちにできる最大限のことをしているのだ。ここに私たちへのメッセージがあると思う。

ロヨラのイグナチオは、「私たちはあたかもすべてが自分たちにかかっているかのように働かなければならない。しかし、同時にすべてが神にかかっているかのように祈らなければならない。」と書き記している。古いことわざにも、「神は自分自身を助けるものを助ける」というのがある。

 

私たちの信仰は、ただ受け身で空から恵みの雨が降ることを待っているのではなく、積極的に自分たちのできることは何でもし終わってから、あとは「お任せ」することが大事なのではないか。

ジョナサン・リビングストーンの『カモメのジョナサン』の中に次のような言葉がある。「もしあなたが何かを、何者かを愛しているなら、その者を自由にしなければならない。もし自由にし、その者があなたに戻ってくるのであれば、その者はあなたのものである。しかし、自由にしても自分に戻ってこなければ、その者は最初からあなたのものではないのだ。」

私たちは神に助けを求めて祈るが、その祈りは私たちが願った仕方で必ずしもかなえられるわけではない。私たちが思いもしない仕方でかなえられていることの方が多いのだ。神の応えの仕方は友人を通じてか、あるいは、思いもよらない人を通してか、いろいろな出来事を通じてか、多くの関係性を通して応えられることが多いようだ。

今日、この福音を聞いて、自分たちの信仰の在り方、ひたすら待っている信仰から、自ら一歩自分たちができることをした上で、あとは「お任せ」する積極的な信仰になっていけるように共に願いましょう。』(祐川郁生神父)