キリストの聖体

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14・24)

 本日、月寒教会では集会祭儀が行われました。

司教様より任命を受けた「聖体奉仕者」の方々により進められました。下記は祐川神父様がご用意された書簡です。

 

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キリストの聖体の祭日

説教に代えて―――祐川神父

2018.06.03 月寒教会

 洗礼の恵みによって主に結ばれ、互いに仕えあい、福音を、生活を通して証している札幌月寒の兄弟姉妹の皆さんに、主の平和がありますように。

 

今日、主の聖体の祭日に司祭不在にもかかわらず、集会祭儀に来られた皆さん、主の聖体の意味をミサではない集会祭儀で考えてみるのは逆に、ミサへの渇望ゆえ、良い機会となるかもしれません。

 

 ミサにおける大事な五つの要素についてまず考えてみましょう。第一の大切なポイントは1.主の現存です。祈る集会の内に、朗読される言葉の内に、ミサをささげる司祭の内に、また特にパンとブドウ酒の両形態の内にキリストは現存しています。現存するキリストに突き動かされてここに集まった人々は聖霊の力によって①キリストを唯一の道として受け入れ②御父によみせられる唯一の供え物としてキリストをささげ、③自分のすべてをささげてキリストの奉献と合流するのです。

 

また、第二の大切なポイントは2.「記念」(アナムネーシス)です。感謝の祭儀全体は記念です。過去と未来が一つになる「永遠の今」、キリストの死と復活を記念します。

 

三つ目のポイントは3.「奉献」です。ミサはキリストの奉献を記念し、かつ歴史の中に現存させます。その記念を行うことによって、教会もキリストのいけにえ(奉献)にあずかり、その恵みを受けて、自分の奉献的心を養い、自分自身をささげるのです。ですから私たちの日常の生活もキリストと共に奉献となります。

 

最後に、ミサの頂点、クライマックスは4.「交わり」(コミュニオン)です。エウカリスティア(感謝の祭儀)は、通常、別々と思われる物事を一つにします。・神と人 ・個人と共同体 ・社会、政治的な事情によって分けられた人々もキリストにおいて一つになります。エウカリスティアの一致は、神の愛から来る「交わり」(コムニオ)であり、全体的な広さを持っています。

 

 主が復活された主の日(日曜日)に一週間の喜びや苦しみを抱えて、ひとり一人思い思いに主の食卓にやってきます。み言葉を聞き、それに促されて自分の生活を振り返り、主が週日も共におられたこと、み言葉によって自分の生活の修正や良かったことなどを確認し、それぞれパンとブドウ酒の形で自分自身の心をささげます。祭壇で共同体一人ひとりの思いや感情がつまったパンとブドウ酒がキリストの体と血に変えられていく。そして、それを分かち合って聖体を拝領するのです。そのキリストの聖体には、共同体ひとり一人の心、喜びと悲しみも含まれているのです。そして、そのことに関してキリストは「これは私の体、これは私の血」と宣言します。私たちが拝領するのはそういう御体おんからだなのです。「これ」は、それでもあれでもなく、「これ」、一期一会の出会いの「これ」、あなたと私、彼と彼女、あの人たちの「これ」なのです。もう、集まった共同体の人たちに無関心ではいられなくなります。なぜなら、同じ体と血をいただいているからです。それゆえ、エウカリスティアは意味深い和解の食卓でもあります。本来食卓は愛情、友情の交わり、和解の席です。不仲な人とは食卓を共にしないものです。しかし、主の食卓に招かれた者は、その初めの段階で、「兄弟姉妹の皆さんに告白します。思い、言葉、怠りの罪を犯しました。罪深い私たちのために祈り合う」のです。そして、キリストの体を拝領し、5.派遣(ミサ)されていきます。元いた場所、社会へと遣わされていくのです。

 

教会共同体を良くしようと思ったら、ミサ本来の意味深さを味わうことが大事です。逆にミサを良くしようと思ったら、共同体の状態、あり方にかかっています。宣教という外に向けたエネルギーはこの共同体とミサ典礼の出来具合にかかっているのだと思います。宣教、ミサ典礼、共同体のバランスがかたよりのない正三角形であることが理想です。人の集まりは組織的な面と共同体的な面とがあります。組織的な面が強調されすぎると共同体が破壊されていきます。しかし、共同体には組織的な面も同時に必要なことも考えなければなりません。

 

月寒に集まってくるキリスト者たちは、これらのことを考慮しつつ、前向きにキリストの道を歩む者たちです。聖霊の風に後ろから吹かれて、私たちの歩みを続けていきましょう。私たちは皆共に「旅する神の民」なのです。旅の途中の楽しみ、苦しみを共にしつつ、神の国へと船出している民なのです。

 

教皇様の呼びかけによって始まっている「排除ZEROキャンペーン」は、もともと英語ではShare the Journey (困難を伴う旅を分かち合う)というタイトルです。神の国への旅に向けては誰一人排除されることなく、分かち合うことが求められています。主ご自身が私たちに聖体の形で常に自己を分け与え続けているのであれば、私たちもそれ心と体に受け、同じように分かち合う痛みと素晴らしさを体験し、喜び、勇気をもって歩んでいくのでしょう。

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