灰の水曜日 2017.3.1

「わたしたちはその方によって神の義を得る事ができたのです。(二コリント5・21)

昨年9月、司祭の年の黙想に初めて参加しました。

その黙想講話の中で、『聖ベネディクトの戒律』から修道士の種類が紹介されました。

これを聞いたときに、司祭にも当てはまるし、信徒にも当てはまると感じました。

家族でも当てはまるかもしれません。

4種類の修道士がいると書かれています。

共住修道士、隠遁者、独修者、放浪者の4つです。

一つ目の共住修道者は次のように言われています。

「共住修道者は修道院に住み、戒律と修道院長のもとで仕える。」

これはつぎのように置き換えられると思います。

信者は教会に集い、福音とイエス・キリストのもとで仕える。

とてもいい信者だと思います。

二つ目は隠遁者です。

「隠遁者、すなわち隠修士は、修道生活に入った当初の熱誠の段階を越え、修道院における長期の修練を経ている。

多くの同僚の助けによって悪魔と戦うことを学び、鍛錬を重ねた後に兄弟たちを後にし、砂漠での孤独な戦いに向かう彼らは、

今や神以外のだれからの助けもなく、一人、肉体と思念の悪徳と戦うことができる。」

これは世の中に出て行って、活動している人と言えるのではないでしょうか。

弱く貧しく苦しんでいる人々のために、イエスの福音を実現していくという活動をしている人です。

とてもいい信者だと思います。

三つめは独修者です。

「嫌悪すべき修道士である独修者は、『かまどの中で試された黄金』(箴言27.21)のようではなく、戒律によって試されておらず、敬虔の教えを欠き、鉛のように柔軟である。

かれらはその行為においてこの世にまだ忠実であることを示し、その剃髪によって神に対して偽っていることを明らかにしている。

彼らに牧者はなく、二人あるいは三人、時に単独で、自分たちの群れの間で暮らし、主の群れと住むことをしない。

彼らにとり欲望の充足こそ、その法である。そこで何ごとでも心に思い浮かびあるいは望むところは聖と称し、その意に適わないものは禁じられているとみなす。」

何を言っているかというと、福音の教えに従わず、自分の考えによって福音を解釈し、神に忠実なふりをして神に偽っているということです。

気の合う仲間と共に暮らすだけで、ほかの神の子の群れと交わろうとしない。

自分が欲することを満たすことが正しいことだと考え、それが福音に反していると忠告する人の意見は間違いだとみなしている人のことです。

これは悪い信者です。

四つ目は放浪者です。

「各地の放浪に生涯を過ごし、三日あるいは四日その他の修道院で客として滞在し、常に道あり、定住することを知らない。

もろもろの我欲と飲食の誘惑の奴隷である彼らは、すべての点で独修者に劣る。

これらすべての恥ずべき生活様式については、口をつぐみ語らない方がよい。」

 

わたしたちがこの四つのあり方のどこかにいると、わたしは考えます。

今日のマタイによる福音では、三つめの独修者のような人に対する戒めを語っています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」

「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」

これらは神の前で神を試す行為なのです。

第一朗読で主である神のことばとして「わたしに立ち帰れ」とあります。

わたしたちに求められているのは神に立ち帰ることであり、神と和解することです。

四旬節に入り、今日灰を受けるためにここに集うわたしたちは、自分の心が神に向いているのだろうかと振り返るよい機会を与えられています。

このような神の恵みに感謝して灰の式にあずかりましょう。

 

(佐藤謙一神父)