年間第2主日 2017.1.15

「"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32)

本日のミサの司式はフィリピンエクスポージャに同行司祭として参加され帰国された佐藤謙一神父様です。

神父様の説教の一部をご紹介いたします。

 

『今日の福音で洗礼者ヨハネがイエスについてどのような方であるかをあかししているところが読まれました。

ヨハネのあかしはイエスを『世の罪を取り除く神の子羊』と宣言するところから始まっています。

この言葉は毎週、教会が唱えているものです。

それは、一つは「栄光の賛歌」のなかで、もう一つは「平和の賛歌」のなかで歌っています。

栄光の賛歌では「神の子羊、父の御子よ、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」、そして「われらの願いをききいれたまえ」と歌っています。

平和の賛歌でも「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」そして最後に「われらに平安を与えたまえ」と歌っています。

毎週、歌っていますが、どういう意味があるのかを知ることでより信仰を深めらるのではないかと思います。

まず、一つの意味としては、エジプト脱出の夜、イスラエルの人々の家の入口の柱に屠られた小羊の血を塗って、死の使いを過ぎ越したということがあります。(出エジプト12.13)

小羊の血がイスラエルの人々を滅びから解放したということになります。

そのことから、イエスが小羊のように自分を犠牲としてささげ、人類の罪を贖われたので「神の子羊」と呼ばれるようになったのです。

また、洗礼者ヨハネが祭司ザカリアの息子であることから神殿での小羊をささげることと対応して呼ぶようになったという考えもあります。

神殿では毎日朝晩に人々の罪のために小羊をささげなければなりませんでした。(出エジプト29.38-42)

しかし、イエスはただ一回の犠牲によって、人々の罪をゆるすことができた人であり、これこそ神の子羊であるという意味で呼ばれました。

最後に、エレミヤの預言(エレミヤ11.19)やイザヤの預言(イザヤ53.7)の中に、従順と愛によって苦難と犠牲を受け、イスラエルの民を贖おうとする者の姿を称して「小羊」という言葉があります。

いずれにせよ、わたしたちが今、イエスを「神の子羊」と宣言することは旧約の時代から受け継がれてきた歴史や記憶とのつながりから、意味のあることだと考えられます。

十字架にかけられて殺されたイエスが、新しい過越の小羊である事を伝えようとしているからです。

「わたしはこの方を知らなかった」という言葉が2回出てきます。

洗礼者ヨハネはイエスのいとこですから、イエスについて知らないということはないでしょう。

ヨハネが「知らなかった」というのは、イエスがだれであるかということではなく、イエスがどういう使命を帯びている方なのか知らなかったということだと思います。

ヨハネはイエス「こそ神の子である」という啓示を受けました。

それはヨハネを遣わした神が『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と言っていたことが実現したからです。

この記述は他の3つの福音書にもありますから、それぞれの福音書を使っていた共同体がいずれも同じ信仰を持っていたということが言えます。

イエスこそ神の子であるという信仰です。

他の福音書では「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。

それによってヨハネはイエス「こそ神の子である」と確信しました。

洗礼者ヨハネのあかしは、人々に「救い主」がだれであるかを示すことでした。

イエスが『聖霊によって洗礼を授ける人であ』り、イエス『こそ神の子である』というあかしです。

ヨハネは、あとはイエスに任せて、自分はただ退いていく者であると考えていました。

人間にはそれぞれ神から与えられた召命というものがあります。

ヨハネも自分の召命を忠実に生きた一人です。

今生きているわたしたちの召命は、イエスが残したよい知らせを伝えていくことと、それを実践していくことです。

その中でイエスは神の子であるというあかしが伴わなければならないのです。』