主の降誕 (夜半のミサ)

「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2・11)

 主のご降誕、お喜び申し上げます。

救い主がお生まれになった今日、大雪、渋滞の中、200 名程の方が聖堂に集りました。

祐川神父様と佐藤神父様との共同司式で行われました。佐藤神父様の説教をご紹介いたします。

 

『主のご降誕おめでとうございます。

この「おめでとうございます」という言葉は、だれに向けて言われているかというと、ここにいる人同士お互いに向かって言われているのです。

わたしたちキリストを信じる者すべてに対して、そしてこの世に生まれてきたすべての人のために言われていることなのです。

今ここにいる周りの人に、「よかった。イエスがこの世にお生まれになった。あなたのためにお生まれになった。だからおめでとう」と言うわけです。

どうしてそう言えるのかと思う人もいるでしょう。

イエスが生まれただけでは、救いが来たということは言えません。

ですが、イエスの生涯を見たときに、イエスが生きている間、人々に宣べ伝えてきたことや行ってきたことを知ってはじめてその偉大さが分かるのです。

そして、生涯の最後において十字架にかけられるという苦しみから永遠の命を得るためのからだの復活に至る過ぎ越しがあることを示されました。

死を過ぎ越して永遠の命に至ることを示したのです。

わたしたちはすでにイエスが生涯の中で行ってきたことをよく知っています。

この過ぎ越しをわたしたちに示してくださったことによって、わたしたちはイエスの生涯すべてがわたしたちの生き方を示すための偉大な行いだったのだと分かるわけです。

イエスの生き方にならって自分も生きていこうとし、イエスを信じていくことで自分たちも永遠の命に与ることができるのだということで、今「主の降誕」をお祝いしているのです。

 

もちろん、これらのことがわたしたちに直接示されたわけではありません。

イエスの後の世に生きている者には間接的にその生涯を知ることしかありません。

今日、このようにミサの中で読まれる聖書や伝承によってしか知ることができません。

しかし、わたしもそうですが、信者の皆さんも何らかの形で復活したキリストとの出会いを体験しているのではないかと思います。

個人個人それぞれの状況に応じてキリストは現れるので、その時は気づかなくても後から考えると、あれがキリストとの出会いだったのだとハッとすることがあるのです。

気づくことができるように神に心を向けることが祈りであり、今行っている感謝の祭儀、ミサであるのです。

イエスの誕生の次第から、イエスの死、そして復活、聖霊降臨に至るまで、いつもイエスのそばで見守っていたのはイエスの母マリアでした。

イエスの母マリアはイエスが幼いころからの伝承を伝えるという上で、マリアの果たす役割は大きかったと思います。

聖書記者のルカに幼少の頃のイエスのことをよく話していたのかもしれません。

 

今日読まれた福音の状況はやはりマリアが話したと思われるエピソードでしょう。

大変な旅だったと思いますが、マリアは喜びにあふれてルカに伝えたのではないかと思います。

住民登録するために、ナザレからベツレヘムに移動するのは大変です。

道を通ると実際は160kmくらいはあったでしょう。

身重のマリアを連れてベツレヘムに歩いて、あるいはロバに乗って行ったとしても1週間くらいかかったのではないでしょうか。

そのような長距離に耐えて、もうすぐイエスを生むというときに、登録の人であふれて宿がなかったので、生んだ後、飼い葉おけに寝かせるしかなかったのです。

飼い葉おけに象徴されていることは、通常の子どもを寝かせる場所ではないということです。

人が使うものではなく、動物が食事をするものの中におかれたのです。

そこにイエスが何を自分の基盤としていたか、何を自分の立ち位置としていたかがうかがえます。

世界にはいまだイエスのように生まれている人がいます。

幸いにわたしたちは情報化社会によって、そういう生まれ方をした人々を知ることができます。

しかし、知るだけで「かわいそうだ」というだけで終わってはいけないのです。

どう行動していけばいいのかを考えて、そして本当に行動しましょう。

イエスが飼い葉おけにおかれたのはそういうことをわたしたちに訴えるためであると思います。

小さな命が大切にされて、この世界の中で一緒に生きていくことができるような世の中にしていけるように願い、そして行動していきましょう。

 

今日、主の降誕、イエスの誕生を記念します。

今日は神が計画した偉大なことではありますし、わたしたちの希望の光であるイエスがこの世に来られたことをお祝いする日です。

今日、この日のイエスはまだ無力で言葉もありませんが、この世に大きな光が差し込んできた大切な日であると言えるのだと思います。』