待降節第3主日 2016.12.11

「来るべき方は、あなたでしょうか」(マタイ11・3)

本日のミサの司式は祐川郁生神父様と佐藤謙一神父様の共同司式です。佐藤神父様の説教をご紹介いたします。

 

『典礼はすべて神からの人間への近づきを示すものです。

それは昔歴史的にあったものではなく、今現に典礼のうちに神が人間に近づくということです。

典礼の祈りというものは、今現にわたしたちに近づいている神にささげるものなのです。

主日のミサの中でも神はわたしたちに近づき、わたしたちがささげようとしている祈りを受け取ろうとしています。

葬儀ミサの中でも神はわたしたちに近づき、亡くなられた方を神にささげようとしている祈りとともに、神は亡くなられた方を受け取ろうとしています。

ですから共同体の祈りでは、いつも神が近づいてきてわたしたちの願いを聞き取ろうとしているのです。

 

今は待降節という季節ですが、この季節は特に神を待ち望むという時です。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」とイエスは旧約の預言の言葉を引用してヨハネこそが神への道を準備する者だと言っています。

待降節に読まれる聖書は神が人間を解放するために人間に近づいたことを明らかにしています。

目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人がすべて解放されると書かれています。

そういう人たちに神は近づいている。

だからそれに気づきなさいと言われているのです。

現実にそういう人だけではなく、目の見えない人というのは神が近づいているのに見ようとしない人という意味もあるでしょう。

足の不自由な人というのは神が来るように訴えているのにその場所に足を運ぼうとしない人という意味もあるでしょう。

耳の聞こえない人というのは神が呼び求めているのに聞こうとしない人という意味もあるでしょう。

貧しい人というのはすべてを総合しての呼び方であると考えられますが、様々な事情で圧迫されている人と言えるでしょう。

もしかしたらこの世の中で神はいないと嘆いている人とも考えられます。

これらすべての人が苦しみの中にあって本当は神が近づいていると気づくことができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

福音は告げ知らされています。

これはイエスの使命であったし、イエスがもたらしたものでもあります。

それをわたしたちが受け継いで告げ知らせていかなければなりません。

 

次にわたしたち自身のことも考えなければなりません。

飢え乾いているのに神のことばを聞いて今自分ができることをどうすればいいのかわからない状態にある人になっていないかということです。

イエスの誕生はわたしたちにも救いの喜びをもたらすのです。

イエスは飼い葉おけの中で生まれました。

貧しい人々の代表として生まれました。

イエスがおこなってきたことは単に病気の癒しだけではありません。

わたしたちの心に、神に対する信頼と生きていく希望とお互いに愛することを植え付けさせました。

待降節には特にそのような信仰・希望・愛をわたしたちにももたらしてくださいと祈り求める必要があるのではないかと思います。

 

今日読まれた朗読個所はすべて苦しみの中にあっても救い主が必ず来るので喜びのうちに待ちなさいというものでした。

主の降誕が近づいています。』(佐藤神父様の説教より)