年間第28主日 2016.10.9

「耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(二テモテ2・12)

本日のミサの司式は佐藤神父様です。神父様の説教をご紹介します。

 

『お久しぶりです。月寒教会で2度目の主日ミサとなります。

 

WYDの報告会を昨日8日に北一条教会で行いました。

札幌教区の青年7名が報告にあたり、写真のスライドショーでどこに行ったか、そこでどう感じたかを伝えました。

全世界のキリストを信じる人々との出会いを通して、わたし自身もカトリックのすごい力を感じました。

札幌教区の青年たちの信仰も確かなものとなったのではないかと思います。

そういう意味でWYDは信仰を体験する大きな場所であると感じました。

2019年のパナマ大会に向けて若者にぜひ参加してもらうよう、これから勧めていきたいと思います。

 

日本の中で普通に社会生活をしていると、キリスト者、特にカトリックの信仰を持った方々と交流を持つことがごく一部の人に限られてしまいます。

しかし、ポーランドでは95%がカトリック信者ですから日常生活がカトリックの世界です。

もちろんだからいい世界かとどうかということはわかりません。

日本で仏教徒でも素晴らしい人はいますし、神を信じない人でも人格者と呼ばれる人はいます。

カトリック信者だからといってすべて素晴らしい人格者であるわけでもありません。

むしろ、イエス様は罪びとを招くためにわたしは来たのだと言っているくらいです。

わたしたちは罪びとであり、神の癒しを必要としているものだという謙虚な姿勢を求められているのだと思います。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」(ルカ5.31)というイエス様のことばがあります。

健康とは自分の体が正常で生き生きとしているというだけではなく、身体的にも、精神的にも、そして社会的にも十分に調和のとれた状態をいいます。

健康とは個人的なものではなく多面的な人間関係の中で調和が取れて良好な状態のことを言います。

健康を失った人は、からだの健康だけではなく、霊的な健康や社会的な健康を回復し癒されるのを待ち望んでいる者だと言えます。

 

今日読まれた第一朗読では社会的に重要な地位にあったナアマンがイスラエルの神を信じる物語が読まれました。

イスラエルの捕虜でナアマンの妻の召使であった少女からサマリアの預言者のところに行けば、ナアマンの重い皮膚病は癒されると聞き、シリアの王に促されてナアマンは出向いていきました。

しかしナアマンは預言者エリシャのことばに憤慨します。

「ヨルダン川に七度体を浸しなさい。」

ヨルダン川はきれいな川であるとはとても言えません。

自分の住んでいるところにあるもっときれいな川で洗って清くなれないのかと憤慨するわけです。

しかし家来たちに「ただ『身を洗え、そうすれば清められる』と言っただけではないですか」といさめられナアマンは従いました。

神の人エリシャの言葉通りにすると皮膚病は治り、神を信じることとなります。

彼の場合は体の健康を回復しただけではなく、癒されたことによって神との関係、つまり霊的な面での癒しを経験したのです。

 

同じように福音朗読で、イエスに十人の人が「わたしたちを憐れんでください」と言ったときに、イエスはただ「祭司たちのところに行って体を見せなさい」と言っただけでした。

当時は重い皮膚病を患っていた人々は社会から隔離され、普通の人々とはまったくかかわりなく生活させられていました。

それは中世をとおしても現代にいたるまで、つい最近にいたるまでそうでした。

癒された人々の多くはイエスのことを思い出さず神を賛美することもなく、ただ喜んで社会に復帰していったのかもしれません。

その中で一人だけイエスのもとに戻ってきました。

その人は神殿に向かう道の途中で清められながらも、イエスに対する疑いもあったでしょうし、

社会の中で孤立していた不安から解消されて本来の自分として生きていけるかもしれないという期待もあったでしょう。

現実に自分が癒されたという体験を味わったこの一人は心から神に賛美をささげて、イエスの足元にひれ伏して感謝しました。

 

わたしたちは皆、癒しを必要とする部分を持っています。

それは体の癒しかもしれないし、精神的な癒しかもしれないし、社会的な面、人間関係での癒しかもしれません。

神はわたしたちのそういうところをいやしたいと望んでいます。

神はわたしたちがその愛に包まれることを望んでいます。

イエスはそういう神の愛を福音を通してわたしたちに教えてくれます。

イエスのことばを信じて歩むことによって永遠のいのちを与えてくださる神の愛を、わたしたちは知ることができるのです。

わたしたちがこの世の中で生きていく中で、神の招きに耳を傾けて従い続けていくことができるよう願いましょう。

そしてわたしたちが必要としていることを神が示してくださるように願い求めてまいりましょう。

イエス・キリストはわたしたちの希望、わたしたちの力だからです。』(司祭 佐藤謙一)