年間第26主日 2016.9.25

「神は、定められた時にキリストを現してくださいます」(一テモテ6・15)

本日のミサ司式は祐川神父様です。函館トラピストでの司祭黙想会についてお話して下さいました。

トラビストで神父様たちと話しをして分かったことは、共同体で必要なものは、若者・よそ者・ばか者が必要らしいです。説教は勝谷司教様のものをご紹介します。

 

C年年間26主日

 

今年は教皇様の特別な意向で「いつくしみの特別聖年」となっています。その中で、「父がいつくしみ深いように、あなたたちもいつくしみ深くなりなさい」という標語の歌が歌われています。その意味について少し考えてみましょう。

 

 私たちは、ともすると、正しいものに心を止め、悪人を罰するのが神であると、単純に考えてしまいます。それゆえ「救い」についても、悪人は地獄に行き、善人は天国に行くという単純な教会学校時の考えで、理解がストップしている人が多くいます。

 

 今日の福音もそのような考えの延長で読むと、金持ちは目の前の貧しい人、苦しんでいる人に心を止めることをせず、自分のことしか考えない利己的な生き方をしたので、罰を受けて地獄へ落されたのだと考えてしまいます。その場合、この金持ちを地獄に落としたのは神になります。そうでしょうか。神が愛であり、いつくしみに満ちた方であるなら、どんな悪人であれ永遠の滅びを意味する地獄へ落されることがあるでしょうか。

 

教皇様はいつくしみの聖年の大勅書の中で、悪人が罰を受けることは否定していません。しかし、それで終わりではなく、そのあとにゆるしがあることを強調しています。今まで教会内では、罪と罰ばかりが強調され、ゆるしといつくしみが忘れられていたことを教皇様は指摘しています。

 

 今日の福音で考えてみましょう。金持ちは、門前のラザロに施しをしていれば救われたのでしょうか。自分の生活圏内に棘のように刺さったラザロの存在。自分の生活の視野から彼をなくす為の言い訳としての施しであれば、それは救いにつながるのでしょうか。大切なポイントは、金持ちがラザロの苦しみに共感し、自分の生活とかかわりのある世界に彼を置くことです。施しをすることが大切なのではなく。彼とかかわりを持ち、その苦しみと悲しみを共感することが大切なのです。施しはその結果の当たり前の行為に過ぎなくなります。

 

 キリスト教における救いの意味は、単純に正しく生きることによって与えられるご褒美ではありません。救いとは、「愛の交わりの中にある自分を確認することです」正しいか正しくないかは、2次的な問題です。互いに互いの罪をゆるし合い、弱さを受け入れ合って生きるとき、愛する自分、愛されている自分を発見し、そこに生きておられる神の愛を体験するのです。神の大いなる慈しみに包まれるとき、人は初めて自分の罪や愚かさを乗り越える勇気と意思を持つことができます。正しいものが救われるのではありません、罪を犯す弱い自分であっても救われている、すなわち無償で愛されているという実感を体験しているものが正しくなれるのです。そして、それは死んだ後のことではありません。救いは今日ここにあるのです。私たちが、どんなに弱く、罪深い者であっても、神は無償で愛してくださっている。この体験を共有し生きている者が集まっている共同体が教会なのです。私たちは孤独な聖人になるように召されているのではありません。弱さを補い合い、ゆるしあう「愛し合う罪びとの交わり」に生きるように召されているのです。救いは「愛の交わり」の中にあるのです。

 

 地獄は悪人が罰を受けて苦しみもだえるところという固定的なイメージを乗り越える必要があります。地獄は、交わりを拒否した完全に愛に閉ざされた状態と言えるでしょう。その状態は、神ではなく自分がつくり出す状態です。神は無条件に私たちを愛し続けておられます。しかし、自分に向けられる愛の呼びかけを無視したり、拒否したりする自由が私たちにあります。自ら愛に心を閉ざし交わりを拒否し続けるとき、それが地獄の状態なのです。そして、どんな小さな愛も入り込む隙間がないほど心を閉ざしてしまったときそこが地獄となるのです。神が人を地獄に落とすのではありません。地獄は人が自ら落ち込んでいく世界なのです。

 

 自分の罪と過ちを覆い包むより大きな神の慈しみを体験するとき、私たちは他者の過ちに対しても同じような慈しみのまなざしを持つことができるようになります。「父がいつくしみ深いように、あなた方もいつくしみ深くなりなさい」この呼びかけの意味を深く悟り応えていくことができるよう祈りながらミサを続けましょう。

』(勝谷司教様説教より)