年間第28主日 2015.10.11

「人間にできることではないが、神にはできる (マルコ10.27より)

本日の司式は、森田健児神父様でした。
お久しぶりの森田神父様のお元気な姿に
嬉しくなった人たちもたくさんいたと思います。


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以下、森田健児神父様のお説教の一部を掲載します。



 私たちの中に金持ちがどれほどいるかどうかわかりませんけれども、
海外の貧富の差に比べればかなり平均的で、
金持ちと言っても、海外の金持ちとは比べられないと思います。
それでも私たちは、世界でもトップクラスの豊かな国に生きている、
そのことを忘れないようにしたいと思います。


 今日の福音の金持ちの若者ですけれども、
すべてを捨てて、とイエス様はおっしゃいましたが、
どうも「弟子」として彼を招いたという解釈があります。
誰もがすべてを捨てなければということではなくて、
家族を持っている人は、すべてを捨てることはできないですよね。
ですから、「弟子」としてイエス様は彼をお招きになったという解釈があるそうです。


 金持ちであると、人間の成長が、本当に神の望むとおりではないということがあり得ると思います
お金でなんでもできたり、みんながちやほやしてくれるので、
本当に自分に必要なことを言ってくれる人がいないとか、
苦難を経てからでなければ、得られない知恵とか、心の善良さとか、
それを得られないとか、きっとそういういろんな妨げがあるのだと思います。

この青年は、お金に執着していたわけではないと思うんですけれども、
ただ、自分の財産を失いたくなかったということではないかなと思います。
金持ちになろうとしていろんな手段を駆使していたんではなくて、
親から受け継いだ莫大な財産を、失いたくなかった。
そのままで、信仰生活を続けたかったということではないかなと思います。
それでイエス様は、これをすべて捨ててご自分に従ってくれば、さらに豊かになるのに、
それができなくなったこの青年のことを非常に悲しんだわけなんですね。
イエス様こそ真の知恵で、この知恵に従うためにすべてを捨てて付いてくる人は、豊かな知恵を得る。
そうおっしゃりたいのだと思います。


 財産、私たちもなにかの奴隷になっているかどうかは、自分では意識しません。
ですがこういうことがあると思います。
「安定感」、生活の安定、あるいは秩序、これは良いことですよね。
秩序も安定も、あるいは家族の生活の安定を願うのも、良いことだと思います。
しかし、イエス様に従う時に、たとえばすべてを捨てるということになると、
本当に不安定の中に飛び込んで行くという意味があると思います。
しかし、あとは私がなんとかするということで、キリストが神様が、
あとは豊かにはならないけれども、
あなたの命のこと、生活のことはなんとか看て、
ただ私があなたを導きたい、その使命に導く、そういうことだと思います。


 私たちが生活の安定を求めるときに、ひとつ、問題になり得るのが、
たとえば現代のこのシリア難民のように、自分の国にたくさんの難民を受け入れるというときに、
私たちは自分の生活を乱されたくない、社会の秩序を乱されたくない、
彼らのために税金を使ってほしくない、ということになると、受け入れられないんです。
社会全体が、平和とか生活の安定とか、秩序ということに、一番大きなポイントを置いていると、
最も苦しんでいる人を助けるために、手を出せない。
今はドイツがいろいろやってますが、TVにあるドイツ人が「日本を見習え、ドイツは受け入れ過ぎだ」と。
日本はあまり難民を受け入れていません。
「あちらの方が正しいんだ」という言い方をして、日本のやり方が正しいという言い方をしています。
私たちは、「常識的に正しいこと」と、
あともう一つ、「神の知恵として、福音として正しいこと」の2つのレベルがあると考えるといいと思います。
両方大切なんですけれども、イエス様の知恵の方がもっと大切、神を大切にし、隣人を大切にし、
最も苦しんでいる人のために自分を差し出すということの方が、もっと大切です。
そのためには、安定とか自分のもっているものを差し出すとか、常識的に考えられている幸せを冒す、冒険をしなければなりません。


 私たちが思っている社会的な「善」を「good」だと思ってください。
しかしイエス様が教えられるのは、「より良いこと」であって、「better」です。
「good」はよく「better」を阻害するという言い方をします。
ですから私たちも、自分たちの持っている平和とか秩序とか乱されない静けさという観念を、
これがもっと大切なことがあるときのためには、
冒険をしなければならないこともある、そう思います。
そのドイツ人が言っていることは、秩序のためには確かに良いことを言っていますが、
今、助けを必要としているたくさんの人を、秩序のために受け入れないと言ったときに、
福音としてはどちらでしょうか。
たしかに両方大切だけれども、私たちはそれを考えていないといけないと思います。
私たちも、平和は大切ですけれども、その奴隷になってはいけない。
社会の安定は大切ですけれども、その奴隷になってはいけない。
もっと助けが必要ない人がいるときには、
飛び込んでいく、彼らと共に乱れてしまった、不秩序を共に耐えていく、
彼らと共に貧しさを分かち合っていく、そういう気持ちがなければ、
自分たちのところに受け入れることはできないと思います。


 ちょうど弟子たちがイエス様に従うためには、「すべてを捨てて」とおしゃいましたね。
ですから、もう完全な不安定の中に飛び込んで、まったくイエス様に信頼していったように、
私たちも福音を貫こうとしたときに、自分たちが大切だなと思っていたいろんなことを、
あえて冒さなければならないことも、あるんじゃないかなと思います。
そういう経済的な安定感も捨てるとか、あるいはこの人たちと共に不安定を経験するとか、
それが私たちが受ける苦しみであったり、キリスト者が当然受けると言われている迫害であったり、
それに近いんじゃないかなという気がいたします。

私たちの中であるのは信頼ですね、そういうところを揺り動かされながら真の知恵に近づいていきます。
そういうときに神が助けてくださる。
正しいことを、あるいはこの最も貧しいこの人たちのためになにかをしたときに、
きっと神が助けてくださる、そういう信頼のもとに、生きていくべきではないかなと思います。


 「この世ですべてを捨てた者は、この世では迫害を受けるが、家、兄弟、父、母、子ども、畑も百倍受ける、
後の世では永遠の命を受ける」
このイエス様の約束をしっかりと心に抱いていきたいと思います。
社会的に「良い」と思われていることは確かに大切で、
しかし私たちは、福音の正しさも、価値観も一緒に生きていく。
この二つを統合していくわけなんですね。
社会の価値観はどうでもいい、という生き方ではなくて、
これがぶつかり合うときに、私たちはどのように選択していくか。
これが問われているんじゃないかと思います。
社会全体で、秩序が絶対的に大切だと思われているときに、私たちはどう考えるか。
それは問われるんじゃないかと思います。
そして私たちの一人一人の生活の中でも、なにかそういう経験があると思います。
こういうことに遭遇すると、
あるいはこの人とかかわると、私の生活が乱される、私もこの人といろんな意味で、経済的にも助けなければいけなくなってしまうとか、
そういうときにもしかしたら、それは本当の豊かさへの道かもしれない、真の知恵への道かもしれない、
本当はもっと豊かなものがそこから流れてくるかもしれない、そういうふうに信頼できるんじゃないかなと思います。


 ヨーロッパも、こういう難民を受け入れることで、将来大きな恵みになることを願っています。
私たちも生活の中で、いろいろ考えて、そういうものは捨ててもいい、不安定の中に飛び込んでもいいんだ、このところを大切にしていきたいと思います。
(説教の一部を抜粋)


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