年間第13主日 2015.6.28

「子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた」(マルコ5・41)

本日のミサの司式はイースタービレッジからお帰りになられた祐川神父様、ロー神父様、そして東京教区からいらした小林祥二神父様の共同司式です。

祐川神父様の説教をご紹介いたします。


ある春の夜、大雨が降って、避難勧告が出され、川が氾濫し、ある、おばあさんの家が被害にあった。レスキュー隊が「おばあさん、早く避難しましょう。」と勧めた。おばあさんは、「神様がお救い下さるからいらない。」と断った。翌日、レスキュー隊が訪れると2階まで浸水していたが、前日と同様に「神様にお助けいただくから良い。」と断られた。その翌日、屋根まで水が上がり、レスキュー隊はヘリコプターを用意してロープを下ろしてつかまるように勧めたが、今まで通り、「神様の救いを待つ」と拒絶され、ついに、おばあさんは天国に上ってしまった。天国の門で、ペトロが「さあ、中にお入りなさい。」と言ったところ「いいえ、まず、神様に文句を言いたい。紙をよこしなさい。わたしは、最後まで神様を信じていたがこのありさまだ」と言った。ペトロは戸惑って、「神様は、きっとこれ以上のことを、あなたにしてあげることはできなかったと思います。なぜなら、2回ボートを出し、最後にヘリコプターまで出して、3度も救いの手を差しのべている。」と言った。

 

今日の、福音の中にある出血している女性は、ただ、だまって待っているのではなく、自分の出来る最善のことをした。救いを消極的に待つのではなく、まず、自分の出来ることをする。おばあさんも出血のあった女性も両方とも神様を信じていた。ただ、おばあさんは神様の救いを、ただ、待っていた。それに反して出血のある女性は自分から積極的に神に近寄っていった。我々は、すべてが自分たちにかかっているかのように働き活動しなければいけないけれど、しかし、すべてが神にかかっているかのように祈らなければならない。私達自身の責任、私達に出来ることに最善をつくすことが大切なのです。神様は私達に自由を与えて下さる。自由を考えて行動する。


私達が子供の時に読んだ「かもめのジョナサン」という本がありますが、あなたに愛する人がいた時、その人を自由にしなければならない。その人がわたしの所に戻ってきた時は、それは、あなたのもの。戻って来なかった時は、その人を自由にしなければならない。自由という言葉をどう使うか。私達はミサの中で、「世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ。」と言います。私達はひたすら神様の帰りを待って聖堂で祈るだけでなくて、まず、私達の出来ることを行う。世の罪とは、あなたがた、ひとり一人の社会の罪の事ではなく、もっと構造的な罪、貧困、あるいは戦争、いろいろな差別、そういった「世の罪を除きたもう主よ」です。最終的には、だまって待つのではなくて、最善を尽くして「世の罪を許したもう主よ、私等を憐れみたまえ。」と祈ります。消極的な意味で言うのではなく、私達はこれだけ今、行っていますが、それでも足りないかも知れません。でも、最終的には「あなたに委ねます。」と。私たちが慣れてしまっている一言一言である「主よ憐れみたまえ、キリスト憐れみたまえ」。今日のミサの中で受身で憐れみを待つのではなく、私達の与えられたこの体、与えられた能力、いろいろなものを福音の為に使いましょう。アーメン。』(説教の一部を抜粋)